「駄目だわ」
「本当だ。一体どうなってるんだ」
呟きながら拙い事になったと僕は真っ先にジムのオフィスに駆け込みます。
「国立衛生研究所のマークのところに朝は寄るつもりだから、8時までに彼にメールしておいてくれればいいよ。頼んだぞ、マイク」
ジムは何事も無いようにサラリと言って出かけてしまいました。でも、もし東部時間の明日朝8時まで、つまりこちらの時間の午前5時までにできなかったら大変なことになります。未だ来て間もないローラはもしかしたらクビになるかもしれません。ジムに要らないと言われれば、下手をしたら退学です。僕自身も、これ一回でクビはないと思いたいところですが、予算の状況によっては分かりません。出来て当然の実験データが出せない研究者は要らないというのがこの研究室の鉄則なのです。
ラボに戻るとローラが蒼白な顔で飛んできました。
「マイク。どうすれば良いの?」
ローラもボスの厳しさをとっくに知っているので、最悪の場合を考えているのです。
「大丈夫、大丈夫。僕はこういうことは何度も経験しているから。午前5時までに完成してメールで送ればいい」
両手でローラの肩をポンポンと叩きながら落ち着かせます。こんな時に慌てていてはまた失敗してしまいます。
「時間は十分あるからきちんと考えよう。まず、溶液類を全部チェックしよう」
先程自分で使った十数種類の溶液の瓶を机の上に並べます。
「これらを全部作り直したんだね?」
「そう。濃縮液からだけど」
「もちろん」
実験には沢山の種類の溶液を使いますが、全てを毎回調製していたのでは時間がかかりすぎるので、10倍とか50倍の濃縮溶液を作っておいて、必要に応じてそれらを薄めて実際に使う溶液類を調製するのです。
冷蔵庫やフリーザーに保存しているものも取り出して並べます。
「間違いないみたいだね」
ローラも心配そうに首を縦に振ります。
それから二人で実験ノートを互いに十分チェックしましたが、どこにも間違いはありません。電気泳動装置もちゃんと動作しています。これは困りました。どこにもおかしいところが無いのに結果だけがおかしいなんて。
「もう一度やり直してみる?」とローラが呟きます。
「いや、君がやって、僕がやって、どっちも失敗したんだ。絶対何かがおかしい」
ローラがじっと僕を見詰めます。
「濃縮液も調べよう」
「そうね」
ローラが濃縮液の瓶をズラリと机の上に並べました。どれもローラが一ヶ月以上前に調製したものですが、今日までおかしな結果が出たことはありませんでした。
「これを使ってるのは君だけだね」
「そうよ」
僕は一つずつ瓶を取り上げると軽く振って変な固形物が出来ていないか、カビが生えていないか調べます。随分以前に濃縮液にカビが生えてデータがおかしくなったことを思い出したのです。普通であればこんな高濃度の溶液だからカビは生えないはずなのですが、たまにはそんなことも起きるのです。
ローラも真剣な面持ちで僕の手の先を見つめます。
「こいつか」
溶液Lの瓶を振ると、ほんの少し白いもやっとしたものが一瞬舞い上がりました。
「Lにカビが生えるとは信じられないな」
他の瓶は全部大丈夫のようです。
僕はLの瓶を持って顕微鏡のところへ行き、スライドグラスに一滴落として眺めてみます。
「やっぱり、こいつか。見てご覧」
ローラは覗き込むなり「まぁ」と叫びました。
「よし。Lを作り直しだ。それできっと上手く行く!」
言いながら僕はLとは厄介だなと思っていました。だって一番手間のかかる濃縮溶液だからです。時計を見ると既に10時です。ジムの飛行機は間もなく離陸するはず。
「あと7時間か。Lを作るのに2時間はかかるけど、何とか間に合いそうだね」
僕は一生懸命笑顔を作ってローラに微笑みます。
「必要な試薬を取ってくるわ」
ローラが試薬棚へと走って行き、僕はビーカーやフラスコを取り出しました。
* * * * * *
午前4時のラボにはさすがに人気はありません。「グッド・ラック」と言ってカールが帰って行ったのはもう何時間も前で、それから後はラボに残っているのは僕とローラだけ。電気泳動装置をセットし終わると後は待つしかないのですが、今度ばかりはローラも僕もオフィスに戻っていても落ち着かず、結局は二人とも装置の前に ずっと座っていたのです。
不安そうな表情で装置を見つめるローラの横顔は抱きしめたくなる程愛しく、僕はこのままずっと実験が終わらなければいいのにと、縁起でもないことを思いながら、化粧っ気の無い美貌をちらりちらりと眺めていたのです。僕の視線に気付いてローラがこちらを向いてもその顔には微笑みは浮かばず、逆に僕の目を見つめて泣き出しそうになるので、「大丈夫」と言って頷くと、ローラは黒のレギンスに包まれた膝をジーンズを穿いた僕の膝に触れるほどに近づけると、上半身を寄せて僕の膝に手を伸ばし、「大丈夫よね」と念を押すのでした。
白い薄手のトレーナーを通して胸が揺れたのがはっきりと分かり、ローラの香りが僕を包みました。
「大丈夫」僕はそう言ってローラの手に僕の手を重ねると、時計を見ます。そろそろです。
ローラはUVメガネを掛けると、僕にもUVメガネを渡してくれ、僕達は顔をくっつけるようにしてUVランプで照らされたDNAのバンドを覗き込みました。「うまく行ったね」
そう言ってローラの方を見ると、UVメガネを外して顔をくしゃくしゃにしたローラが「マイク・・・」と言いながら抱きついて来るなり、ワーワーと泣き出したのです。「うまく行ったんだから、もう大丈夫だよ」
僕もUVメガネを外してローラをギュッと抱きしめます。「よく頑張ったね、ローラ。もう泣かないで」
「御免なさい、マイク。でも怖かったの。もし駄目だったらと思うと、心配で心配で」そしてローラは再び声を上げて泣き出したのです。
しばらく抱きしめながら髪の毛を撫でているとようやく落ち着いてきたローラはゆっくりと体を離し、「御免なさい。私ったら」と恥ずかしそうにトレーナーの袖で顔を拭うのでした。「じゃあ、早いとこ写真を撮って送ってしまおう」
やっと微笑みの戻ったローラは再びテキパキと動き始め、写真を撮ってパワーポイント形式にして国立衛生研究所のマーク宛てにメールを送信し終えたのは午前5時10分前でした。直ぐにジムから電話が掛かってきて、「グッド・ジョブ!ローラにも良く頑張ったと言っておいてくれ」とだけ言うとすぐ切れました。
「良く頑張ったね、だって」「ありがとう、マイク」
「さあ、さっさと片付けて帰ろう。そうだ、お腹空かない?」「ええ、私はペコペコ。象だって食べられそう」
「何が食べたい?何でも奢るよ。と言ってもこんな時間だからファーストフードしか開いてないかもしれないけど」「そうね。えーと」
ローラはしばらく視線を宙に巡らせてから僕のほうをじっと見つめて恥ずかしそうに言ったのです。「ねえ、マイク。何か買って私のアパートで食べない?」
「えっ?それはもちろんいいけど」「もうくたくたで外で食べたくないの」
ローラは恥ずかしそうに俯きながら弁解するように言います。「じゃあ、中華でも買っていこうか?」
ローラがホッとしたような表情を見せます。「中華は大好きよ。それにビールも飲みたいわね」
* * * * * *
先に帰って部屋を片付けたいからとローラが言うので、買い物は僕がすることにしました。ローラの部屋へ行くのは二人でアパート探しをしたり家具を買い揃えて以来です。しかも今夜はローラが誘ってくれたのです。中華とビールを買った後、僕は真っ赤 なバラを一本買ってローラにプレゼントすることにしました。久しぶりに訪ねるローラのアパートですが道順は忘れていません。道端に車を止めてローラの部屋のある2階へ駆け上がります。冬の午前6時は未だ薄暗く肌寒いですが僕の心は 熱く燃えています。
チャイムを鳴らすとローラが返事をしながらこちらへ歩いてくる足音がします。僕が左手に中華とビールの袋を提げ、右手に持ったバラを後ろに隠して少し緊張しながら待っているとドアが開き、ハッとするような美貌が顔を覗かせました。「さあ入って、マイク」
「じゃあおじゃまします」そして部屋に入るなり僕は「実験成功オメデトウ!」と言いながらバラを差し出したのです。
「まあ、マイク。ありがとう」バラを受け取ったローラは満面の笑みを浮かべましたが、直ぐに目が潤んできて買い物袋を提げたまま突っ立っている僕に抱きつきながら、「ありがとう、ありがとう」と何度も僕の頬に口付けをします。
ローラはピンクのロングパンツに同じ色の薄手のフーディ(フード付きトレーナー)に着替えていて、きっとシャワーを浴びたのでしょう、長いブロンドは未だしっとりと濡れていて、体からはほのかにボディーローションの香りが立ち昇ります。そして僕をギュッと抱きしめるたびにローラの柔らかな胸が僕の胸に押し付けられ、ブラジャーをしていないことを感じて僕のペニスが勃起してしまいます。しばらく抱き合ったあとローラは体を離し、「さあ座って」と恥ずかしそうに言います。
久しぶりに見るローラの部屋は以前とは大違いで、上品な家具や装飾品が華やかな中にも落ち着いた雰囲気を醸し出しています。「ふーん、とってもいい部屋だね」
「ありがとう。でもあんまり見ないでね。さっき慌てて片付けたとこだから」部屋の中央の黒いコーヒーテーブルに買い物袋の中身を出してから僕はソファーに腰を下ろします。中華の容器が三つ、クンパオ・チキン、ビーフ・アンド・ブロッコリー、それにフライド ・ライスが並び、良い匂いが部屋に満ちて空腹を刺激します。そして忘れてはいけません、僕の大好きなビール、サム・アダム ズの瓶が6本。ローラがキッチンから白いお皿と大きなスプーンを三つ持ってきて僕の横に腰を下ろします。
サム・アダムズのキャップを指で捻って外してローラに渡します。アメリカのビールは栓抜きが無くても開けられるようになってるのですが、最初はコツが掴めずに指が痛くなったものです。自分のもキュッと開けるとローラが僕の顔を見つめながら瓶を顔の前に掲げ、僕達は瓶の首のところを軽く触れ合わせてキンという音を立てます。「乾杯!」
「乾杯!」徹夜明けのビールは格別です。
「美味しいね」「ほんと。美味しいわ」
そして僕たちはビール瓶を置くと、中華の容器に手を伸ばしました。「さあ、食べよう」
「ええ、食べましょう」ファースト・フードの中華は空腹ということもあって結構いけるのです。昨日の午後からの出来事を思い出しながら、僕もローラもよく喋り、よく飲み、そしてよく食べました。そんなにお酒の強くない僕は顔が赤くなってきたのを感じます。そしてローラの白い肌がほんのり とピンクに染まり、額に は少し汗が滲んできました。
「暑くなってきたわ」ローラが僕の横に座ったままフーディを頭から脱ごうと、裾を掴んで両手を上げると、下に着ている白のタンクトップの裾がずり上がってウエストが上のほうまで露わになります。
「フゥー」と溜め息を付いてフーディを脱ぐと、お臍の上までしかないタンクトップの下にはやはりブラジャーは付けていないようで、豊かな乳房がタンクトップを押し上げ、乳首がくっきりと浮き上がっています。僕は思わず視線を逸らしてビールを口に運びます。
「マイクは暑くない?」「い、いや、僕は大丈夫」
そう答える僕の声は少し震えていました。もしかしてローラは僕を誘惑しているのでしょうか。それなら願ったり適ったりです。僕も我慢せずにトレーナを脱ぐことにしました。「いや、やっぱり少し暑いね」
そう言って僕も白いTシャツ1枚になりました。「今日は何だかビールがとても美味しいわ。でもあと一本ずつしかないわね」
ローラがテーブルの向こう側に置いてあるサム・アダムズを取ろうと僕の前に斜めに体を伸ばすと、ローライズのロングパンツが少しずり下がってお尻に張り付いた真っ白のTバックが少し顔を出しました。思わず見とれていると、両手にビール瓶を持ったローラがこちらを向き、「栓を開けてくれる」と首を傾けて僕を見つめます。
「もちろん」キュッ、キュッと良い音を立てて二本のビール瓶のキャップを外し、一本をローラに渡すと、ゴクンゴクンと喉を鳴らしながら一気に半分位を飲んでしまいます。飲みっぷりのよさにあっけに取られていると、瓶をテーブルに置いてローラがこちらを向きます。そして真剣な顔で話し出したのです。
「マイク。今日は本当にありがとう」「いや、そんな。先輩として当然のことだよ」
僕はビール瓶を持ったままローラの少し汗ばんだピンク色の顔を見ながら微笑んでましたが、彼女の真剣な表情の前に次第に笑みは消えていきました。「マイク、私告白するけど、あなたのことが最初から好きだったの」
いきなりの衝撃的な言葉です。僕は心臓の動悸をはっきりと聞きながら答えます。「じ、実は僕も好きだった」
こういう場合ってギュッと抱きしめるべきなんじゃないだろうかと思いながら、僕はビール瓶を持ったままじっとローラを見詰めていました。「でもずっと迷ってたの。だってマイクは指導教官だし、だからずっとマイクのことを大切な先輩、いえ、お兄さんみたいに思おうとしてきたの。でも今日分かったの。私はやっぱりマイク、あなたのことを愛してるんだって」
「僕も愛してるよ、ローラ。僕もずっと君の事は妹みたいに思わなければって考えてたんだけど、やっぱり無理だった。愛してるよ、ローラ」僕は未だビール瓶を持ったままローラを見詰めています。そしてじっと僕を見詰めているローラの瞳が潤んできたのです。
「マイク、あなたも私のことを愛してくれてるのね」「そうだよ、ローラ」
ローラが指を伸ばして目じりを拭い、天井を見上げながら大きく息を吸ってからフーと吐き出しました。「でもね、マイク。私、もう一つ告白しなければならないことがあるの」
もう一つの告白って、もしかして結婚してるとか。或いは子供がいるのだろうか。 僕は何も言えずにじっとローラを見つめていました。「私、普通の女の子じゃないの」
「なんだ、そんな事」僕はホッとして笑いながら言いました。
「確かに普通じゃないよね。ローラのように外見と中身の違う女の子は初めてだよ」「いえ、そうじゃなくて」
「未だ僕の知らない秘密があるの?」ローラはコクンと首を縦に振ると、囁くように呟いたのです。